熊本城の被災修復と細川忠利
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14寛永二年熊本地震の被害改易された加藤家に代わって細川忠利が前任地の小倉から熊本に入城したのは、寛永九年(一六三二)十二月九日。初めて熊本城に入った忠利は、城とその囲いの広さに驚き、「江戸城のほかに、これほど広いのを見たことがない」と、江戸にいる息子の光尚に宛てて自ら筆を執り送っている(十二月十日付 細川光尚宛自筆書状 大一三―一〇八五)。しかしながら、広い熊本城ではあるが、加藤から引き継いだ城は、あちこちが崩れていたようで、十二月二十五日には幕閣の伊丹康勝に次のような書状で老中衆への取次を頼んでいる。熊本城普請のことは、家中の侍たちの下々までが落ち着いてから、ゆっくりと幕府の許可を得たいと思います。塀など落ちた所は、前の小倉城でやっていたように修理したいです。但ただし、小倉城普請は、度々幕府の許可を得て修理をしていました。熊本城は、塀も直さないのでしょうか。屋根の雨漏り、塀の穴は修理する

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