熊本城の被災修復と細川忠利
15/19

第一章 細川忠利入国直後の熊本城と領国の状態15ものだと思います。この通り、老中稲葉丹後殿・酒井讃岐殿・土井大おおい炊殿などにもお話しなさってください。(十二月二十五日付 伊丹康勝宛忠利書状案 大一六―一八七一)忠利は、「小倉では、城普請について度々幕府の許可を得て繕っていたが、熊本は塀も直していないのか。屋根の漏りや塀の穴くらいは繕うものだろう」と、加藤家時代の城の管理のいい加減さに呆あきれ、批判している。実際、小倉時代の細川家(一六〇〇~一六三二)は小倉城も、父・三斎の中津城も幕府の老中衆の許可を得て、修理普請を細々行っていた。熊本城のメンテの悪さに呆れた忠利ではあったが、しかしながら、忠利が熊本に入った、その七年前の寛永二年(一六二五)六月十七日の夜、加藤代の熊本は大地震に見「細川忠利自筆書状」(部分)寛永9年12月10日 永青文庫蔵

元のページ  ../index.html#15

このブックを見る