熊本城の被災修復と細川忠利
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16舞われていた。当時、小倉にいた細川家の奉行所の記録「萬よろず覚おぼえ書がき」(一二・七・九・一〇)の七月二十一日の項に、その記事が遺されている。熊本城の地震の被害を伝えるものとしてよく知られており、後世写されたものも数点ある。大地震に見舞われた肥後の加藤忠廣のもとに、小倉の細川忠利がお見舞いの使者二人を送った。その使者が帰ってきて次のように報告したのである。六月十七日の夜、肥後で大地震が起き、熊本城の天守、そのほか城内の家々は空木立ばかりになって、瓦・家の梁もすべて落ち崩れ、城内の死者は五十人ほど。火薬庫の蔵から出火、爆発して、およそ五百~八百㍍の間の家は跡も無く全て吹き飛んだ。火薬が四十八㌧以上もあったので、蔵の下の石垣、いずれも屋根瓦が三、四㌔ほども吹き飛んだ。加藤家重臣の斎藤伊豆殿の棒庵の家屋敷も損害を受け、少しずつ修理されている。熊本城については、幕府に修理許可の伺いを立てているということだ。このように、寛永二年の大地震での熊本城の被害は大変なものだった。その被害の大きさから推測すると、細川家が入った時の熊本城はまだ修復が終わっていない状態

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