熊本城の被災修復と細川忠利
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18下津棒庵は加藤家改易後、寛永十三年正月に息子将しょう監げんが細川家に仕えることになるものの、この寛永二年の段階では、細川家にとっては他家の、しかも京都の久我家に由緒を持つ棒庵を、奉行が呼び捨てにする筈はないと考えている。重臣クラスは上屋敷、下屋敷といくつも屋敷を持っていたので、「斎藤伊豆の棒庵(史料では「防庵」と表記)の屋敷」と解釈するべきではないか。もうこの時代には、現在棒庵坂と呼ばれているこの一帯は、すでに当時「棒庵」と呼ばれていたのではないかと推測される。少なくとも肥後に入国してすぐの寛永十年の「肥後国隈本城廻り普請仕度所目録」(「御自分御普請」文・下・四五、本書三四頁)中では「棒庵坂」の地名として出ている。このように、細川家奉行は、斎藤伊豆守の被災状況を記録に特記したが、それは、斎藤が細川家と親交が深かったからであって、城内家臣団屋敷の被害が斎藤の棒庵の屋敷のみにとどまったことを意味するものではない。むしろ、後述するように、広範・甚大な被害を想定しておく必要があるだろう。

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