若槻菊枝の生涯
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8新宿の夜―一九七〇年代 一瞬、チンピラが手にしている金串が光った。地下一階のスナック店内。足を投げ出すように座っている男たちの一人が、先ほどから磨いている金串だった。あからさまにチンピラたちと目を合わせる客はいない。金串の鋭利な先端を想像してか、誰一人として、目立った言動を見せる者はいなかった。 息苦しい雰囲気の店内から逃げ出すには、投げ出されている足を数本、またがなくてはならないが、それができる勇気のある客はいなかった。下手に動けば一触即発の事態になりかねない。 重い空気が充満するなか大理石のフロアに、コツコツコツと足音が鳴り響いた。パンプスの足音は、チンピラの投げ出している足の先まで来るとピタッと止まった。「ちょっと、あんたがた、何しているの?」 落ち着いた声が、金串男の頭上で発せられて、男は初めて顔を上げた。「どういうつもりなの?」 ビア樽のような体型にロングドレスをまとった女が男の顔を直視して立っていた。大正から昭和にかけて活躍した小説家・岡本かの子のようなオカッパヘアの中年の女性――。店のオーナーである若槻菊枝だった。「あんたたちだって、自分の店でこんなことされたら黙っていないでしょ? あんたたちみたいな柄の悪いのが出入りしたら、店が潰れるじゃない」 なんだこのババア――。チンピラたちは、平然と登場した女の存在に戸惑っていた。たたみかけるように、菊枝は続けた。「このままで済むと思っているの? 馬鹿ね、あんたたちは。怪我をしないうちに出て行きなさい。私を誰だと思っているの」

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