若槻菊枝の生涯
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はじめに 世の中には、どうしてこんなことができたのだろう、と驚かずにはいられないほど、勇気ある大胆な行動をとる人がいる。私にとって若わか槻つき菊きく枝えさんとはまさにそういう人物である。 何がすごいのか。若槻菊枝さんは新宿にバーをはじめとする店を五軒持っていた凄腕の経営者で、一九七〇年代、かなりの金額のカンパを水俣病患者支援にしていた。これだけ聞くと、お金持ちがする寄付のことかと思うかもしれないが、そうではない。カンパは彼女一人のサイフから出てきたのではなく、店の客からもあったのだ。その集め方が大胆である。客が支払いをするときに「あなたは百円ね、学生さんは十円で」とカンパ代を上乗せして請求していたというのである。これとは別に、店に置いたカンパ箱に、客が「多いほうがいいんでしょ」と釣り銭を入れてくれたり、バイトの大学生が踊りながらカンパ箱を持ってテーブルを巡回することもあった。菊枝さん自身はカンパの呼びかけに先立ち、百万円を出している。 菊枝さんが取った行動は、これだけではない。水俣から上京してくる患者さんたちが長期滞在できる部屋を探していると聞けば、家を借り上げ宿舎として提供し、これとは別に、自宅の半分も患者さんたちに開放してしまう。そのうちの一部屋は、作家・石牟礼道子さんに書斎として使ってもらっていたというのだ。 ここまで行動できる若槻菊枝さんという人が、一体何者なのか知りたいと思った。それはすなわち、菊枝さんの生い立ちを紐解くことだった。 調べてみると、菊枝さんは、生まれながらのお金持ちではなく、新潟の貧しい小作百姓の家の出身であった。小作争議に忙しくしている父親を側で感じながら育ち、古本売りの親戚が持ってきてくれる売れ残りの外国本を読んでは、まだ見ぬ世界への強い好奇心を膨らませ、一人上京したのだった。田舎者で器量に自信のなかった菊

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